コラム
こけし座談会
たくさんの研究家や愛好家、他の産地の工人さんたちが集まり、
毎年開かれている「こけし座談会」。
今回は、「町はこけしに華やいだ」の
こけし工人の高橋武男さん、櫻井昭二さんのお話から、
当時の「こけし座談会」のことや、
そこに集まったこけしの研究家や愛好家について書きます。
※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用
【こけし座談会の様子。こけし研究家の天江富弥さん(一番左)と工人さんたち。】
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一回目は温泉神社の社務所で「こけし座談会」が開かれて、
確か「こけしという呼び名はどこからきたか」という話が出たと記憶しています。座談会には各地から、工人さんが集まっていつも50人位になったのですが、
司会の天江さんが無理やり発言させたものでした。黙っていると「だめだ、お前しゃべんねぇで」と言われて、名指しで意見を求められて。中にはしゃべり過ぎて、外に出された工人もいたけどね。( 昭二さんのお話より )
写真からも、昭二さんのお話からも、
和気あいあいとした雰囲気が伝わってくるようです。
鳴子には当時、こけしの研究の第一線で活躍する人々が沢山訪れ,
中には、天江富弥さんや西田峯吉さんのように
戦後40年以上に渡って鳴子にかかわってくださる方もいました。
こけしが好きで長いこと集めてきた人の話には心情がこもっているものです。とても勉強になった。だからそういう人に育ててもらったと思っています。 (武男さんのお話より)
こうして、いまもこけしを作っていられるのも、そういう人たちの研究や活動があったからこそと思っています。 (昭二さんのお話より)
お二人の話からは、研究家や愛好家たちがいたからこそ、
こけし工人さんは自身のモチベーションを高め、自分の仕事に誇りを持って、
日々、こけし作りに励むことができていたように感じます。
こけしを作り出す「こけし工人」と、
そのこけしを愛で、研究したり収集する「研究家や愛好家」。
年に一度の「こけし祭り」は、両者が一斉に鳴子に集まり、
こけし工人たちの一年間の仕事をながめ、こけしのこれからを話し合う、
交流の場であったようです。
このつながりや交流が、こけしやこけし祭りを育ててくれたのかもしれません。
( 文:児玉紗也加 )