コラム

鳴子と温泉とこけし

鳴子と温泉とこけし。
「こけし祭り」をやるようになって、この3つが結びついたといえると思います。それまでは気づいていても結びつけるための方法論がなかったんですね。
( 武男さんのお話より)

そう語るのは、「こけし祭り」開催の中心的な役割を果たした、
こけし工人の高橋武男さん。

今回は、「町はこけしに華やいだ」の中から、
どのように鳴子と温泉とこけしの3つが結びついていったのか
書きたいと思います。

スクリーンショット 2020-08-17 10.43.06

※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用
【手前は岡崎斉の店、その後ろは高亀だと思われる。昭和27年(第2回)。】

祭りの中心は、「よこや」のご主人、熊谷彦治さん。
町長をやったこともあった方で、当時50歳代でした。
年上だったが、先輩面はしなかったし、若い人を可愛がった。
誰でも言うことを聞きましたよ。 (武男さんのお話より)

この第四十回開催記念誌には、工人さんだけでなく、
旅館などの町の人たちも一緒になって盛り上げた様子が度々描かれています。

スクリーンショット 2020-08-17 10.43.05

※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用
【工人たちが仕上げたと思われる、横断幕がかけられ「こけし祭り」の文字。
「よこや」から撮影したものと思われる。どこか温もりを感じます。】

温泉旅館組合会長として、祭りの第1回目からかかわった
鳴子ホテル会長の高橋正夫さんは、
こけし祭りと温泉神社祭典について、こう話します。

「こけし祭り」は温泉神社祭典といっしょに開催された時期が長く続きましたが、
「こけし祭り」の方は町外のお客さんを呼ぶという方向づけ、
そして温泉神社のお祭りの方は町の人の祈願成就や楽しみをつくる
という目的で、2つの祭りがうまい具合に噛み合って動いてきたと
思います。 (正夫さんのお話より)

町外からやってくる、こけしを愛好するたくさんの人たちの存在は、
まだこけしへの関心が薄かった町の人々に、こけしの良さを伝えました。

「こけし祭り」をやるようになって、
町の人はこけしに関心を深めたといえると思います。
それまではこけしを趣味にするという町の人はほとんどおりませんでしたから。
愛好するたくさんの人たちが鳴子にやってくるようになって、
しかも年々増えてきた。 (武男さんのお話より)

そのうちに収集家の間にも熱がこもって、批評会をやってみてはどうかということになり、第41年にこけしコンクールが生まれました。 (武男さんのお話より)

「こけし祭り」を開催することで、
鳴子、温泉、こけしがそれぞれ相互に作用し合い、
結果として、鳴子の町としての振興につながったというプロセスが
武男さんのお話から伝わってきます。

それは決して意図的ではなく、
工人さんをはじめ、町の人たちの、年に一度のお祭りにかける熱量が
多くの人の心を動かし、人々を鳴子に引き寄せたのかもしれません。

( 文:児玉紗也加 )