櫻井家

佐藤実さんを偲んで

櫻井万之丞から佐藤実へ
そして昭寛へ受け継がれるこけし

2021年3月24日、佐藤実(旧姓 櫻井実)が亡くなりました。

私、櫻井尚道の大叔父である、実さんとのお話を少し書かせていただきます。

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2011年3月27日、櫻井昭二が亡くなりました。

昭二が亡くなり、数日がたち落ち着いた頃
昭二の弟である佐藤実(旧姓 櫻井実)さんが一枚の色紙を持って櫻井家に訪れ、
こけしの話をしてくれました。

「昭寛、この(歌舞伎)こけしを作れ。」

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実さんが独立した頃の話です。

実さんが櫻井家を独立して、上鳴子というところに工房を構えて
こけしの製造をしていました。

そんなある日、父 櫻井万之丞が工房を訪れ、
一枚の色紙を渡されたそうです。

「歌舞伎のこけしを考えた、実 作って見てはどうか」と

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右の写真内 左:佐藤実

当時を振り返り実さんは
「今思えば、親父(万之丞)は俺の独立を心配してたのかもしれない
だから新しいこけしを進めてきたのかな、
昭二(兄)はもう人気工人で流行っていたのもあったから
親心だったのかな、、、」と

しかし、実さんはその時はこのこけしを作らなかったそうです。

その後、万之丞さんが亡くなり、こけし作りの日々をおくっていた
実さんの元に「土橋慶三」さんが、万之丞さんの作った
歌舞伎のこけし2体を持参し、作ることを勧められます。

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実さんは、あの親父(万之丞)が持ってきた色紙のこけしだと思い出し、
この歌舞伎のこけしを作り始めたそうです。

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左:佐藤実作 右:櫻井万之丞作

この時に、実さんがざんばらの髪のようだからと
「ざんばらこけし」という名前を付けたそうです。

その後、実さんの代表的なこけしの型としてこのこけしは作られていきます。

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左:昭和52年10月発行 四版左:昭和52年10月発行 四版
右:昭和52年12月発行 限定装丁のもの
(表紙のこけしは、左:実作 右:昭二作)

実さんは言います。

「昭二(兄)は絶対に歌舞伎のこけしを作らなかった。」

こけし作り、ものづくりが大好きで、多様な伝統こけしに挑戦し、多くの創作こけしを生み出してきた昭二が万之丞さんが実さんに託した、歌舞伎こけしだけは絶対に作らなかったそうです。

この事に対して、実さんは

「兄貴(昭二)も俺のことを気にかけて歌舞伎のこけしだけは
作らなかったのだろう」と

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左から 実 たかお 昭二(子供:昭寛) 勇

親の子への想い、兄の弟への想い、実さん自身の想い
たくさんの想いが詰まったこけしなんだと感じました。

そんな話をしながら、実さんは昭寛に
「昭寛、この(歌舞伎)こけしを作れ。」と優しく言いました。

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左から、昭二(子供:昭寛) 万之丞

それから数年、
何度か実さんも櫻井家に訪れ、自身の作ったこけしや当時の話をしてくれました。

万之丞さんが歌舞伎が大好きで、
歌舞伎の絵を描いた凧(たこ)をたくさん作っていたこと、
歌舞伎の大きな屏風を飾っていた事
仕事中に歌舞伎の台詞や唄を歌っていた事。

ざんばらこけしは自分が付けたが、
ほんとは【歌舞伎こけし】なんだよなという話もしていました。

昭寛も小さい頃、毎週万之丞さん、コウさんに
鳴子劇場に連れて行ってもらったり、万之丞さんの歌舞伎唄を
聞かされていたそうです。

昭寛は、このこけしの製作を始めるにあたり、
万之丞さんの意を込めて「歌舞伎こけし」として製作を始めます。

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昭寛の木地場

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昭寛は平成30年より、櫻井家の伝統こけしを
ダルマにするという挑戦を行っていました。
こけしダルマの一つとして「歌舞伎こけしのダルマ 」を作り始めます。
その後、令和2年より、歌舞伎こけし、歌舞伎こけしのねまりこ
の2種を作り始めました。

櫻井万之丞から、佐藤実(旧姓櫻井)へ
そして、櫻井家に戻ってきた【歌舞伎こけし】

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歌舞伎こけし ねまりこ(昭寛作)

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歌舞伎こけし(昭寛作)

実さんの話を聞きながら、

きっと実さんの中にも、
万之丞さんが自分の為に作ってくれたこけしを
昭二が自分を想って作らなかったこけしを

昭寛に、そして次の代に作り続けてもらいたい
という想いを感じました。

実さんの優しい笑顔が思い浮びます。

実さんのご冥福をお祈り申し上げます。
生前のご活躍に敬意を表するとともに、
安らかにご永眠されますようお祈りしております。

筆者:櫻井尚道
(写真:小林仁美)

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