コラム

こけしクラブと一万本のこけし

1964年の東京オリンピック。
東京から遠く離れた鳴子にとっても、
この年は、とても熱く、こけしの未来にも関わる重要な年だったようです。

鳴子中学校のこけしクラブは、東京オリンピックの選手団にプレゼントとして、
10000本のこけしを贈りました。

こけし工人さんも手伝いをしたようで、
その年の「こけし祭り」は中止、鳴子のこけし工人さんたちによって
奉納式だけは執り行なわれたようです。

スクリーンショット 2020-08-30 11.12.58

※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用
【この年の奉納式での集合写真。昭和39年。】

当時、鳴子中学校こけしクラブの一員として、
一万本のこけしを作った一人である、こけし工人の岡崎斉一さんは、
当時の様子をこのように話します。

中学生が一万本のこけしをつくるというのだから、大事業だったと思います。
夏休み返上で、約20名のロクロ班が朝9時から夕方5時まで三交代で木地をつくり、そこに描彩班が絵付けしました。先生も自ら工人さんのところに行って習って指導してくださいましたし、こけしの首入れは工人さんがやってくださいました。
一万本のこけしは壮行式をやってもらい、バス二台に乗って、生徒自身が東京へと運び、贈りました。生涯忘れられない思い出です。 (岡崎斉一さんのお話より)

また、これ以降、鳴子中学校のこけしクラブの子供達も、
工人さんたちと一緒に温泉神社にこけしを奉納するようになったそうです。

今回、『こけし祭りへの想いをたずねて』と題して、
鳴子の工人さんたちに、こけし祭りやこけし作りへの想いを伺った時に、
この東京オリンピックの一万本のこけしを製作したことや、こけしクラブでの活動をきっかけに、こけし工人になったという方が何人かいらっしゃいました。

次世代のこけし工人を育てるという面でも、
この出来事は大きかったのではないでしょうか。

今もどこかの国の、誰かの手元に、
その時のこけしがあるのかもしれないと思うと、何だか胸が熱くなりました。

( 文:児玉紗也加 )